隆の導火線

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ほとんどトランペットかロードバイク、料理の話。

2012年 OB吹奏楽団の団長になる

トピックのひとつめはここから。

2012年~2014年にかけては、良くも悪くもこれが自分の生活の中心だったと思います。
恐らく、日記を書かなくなったのもOBバンドがあったからだと思います。


2009年 OB吹奏楽団の幹部になる


思い返すと、大学1年からずっとOB吹奏楽団で演奏してきて、現役の代表をやった直後の大学4年(2009年)に幹部見習いとして総務になったのが最初でした。


その時の幹部陣はみんな10歳ぐらい上ぐらいで、楽団を設立して10年近く運営を続けてきた方々が頑張っていました。
5年以上、後を託せる人を探して幹部として運営を続けていたそうです。


そこで、俺と俺の一つ上の代の現役サークルの幹部に声がかかったわけです。
こいつらはずっとOB吹奏楽団に参加しているし、やる気もあるから託せるだろう、と。


現役サークルの代表を引退した直後に、飲み会に誘われたのを覚えています。
酒が回って気が大きくなっているところに、初代団長から「お前ら、OB吹奏楽団の幹部をやらねえか。お前らにしかできないんだ!」とアツく語られ、なんだかんだでやる気になって引き受けたのを覚えています。
これがすべての始まりでした。


最初は幹部見習いとして、10歳ぐらい年上の幹部陣と一緒に仕事を一年やりました。
学生だった自分からすれば、現役とは全く違うスタイルの「社会人らしい」楽団の運営をズバズバとこなす彼らは非常に優秀に見えました。
いや、今でも実際非常に優秀なのですが、学生から見るとメールで仕事を次々と処理し、タスク管理を続けていく姿は異質で、何より勉強になりました。


学生サークルって、みんなすぐに顔を合わせて話すからメールなんてあまり使わないし、そもそも係の引継ぎとか仕事とかきちんと回っていたんでサークル代表の仕事なんてあんまりなかったんですよね。
みんなの前で叱咤激励して、たくさんお酒を飲んで背中で語れ!って感じの存在なんですよ。


それに比べて、社会人の団体はほとんど顔を合わせることもなく、引継ぎどころか仕事が分担されていない状況でした。
具体的には、練習場の確保、指揮者の先生たちとの調整、演奏会当日のタイムテーブル作成、会計処理、パンフレットやチラシの作成、印刷等々…
細かくそれらを管理して、振れる仕事は頼んでいく。
スケジュールから遅れていたら連絡をして現状確認。
社会人になった今で考えればどれも普通のことですが、学生にとっては驚きと勉強の連続でした。


そして一年の下積みを経て、大学4年(2010年)には一つ上の先輩(元現役サークル代表)が団長になりました。
自分も本格的に総務へ。実務は多かったですが、団長に大きく助けてもらい、時に優しく注意されたりもしながら仕事してました。


この団長もアツい人で、彼が団長だった時には、彼の同期がたくさんいたんじゃないでしょうか。
非常に頑張る人で、お調子者っぽさもありつつ、積極的に仕事をしていく人でした。
この年も勉強になったなあ。あの人と一緒にできたことは素晴らしい経験になりました。


大変な仕事は団長が全部やってくれていたおかげで、自分たちはあまりストレスを感じることなく幹部をやることができていました。この年までは。


2011年 OB吹奏楽団の副団長という名の団長代理になる


翌年の大学院に入った時(2011年)は副団長になりました。
まあ、団長と仕事が大きく分かれていないので、名前も似たようなのにしようとかそんな感じだったかなと覚えています。
この年に、総務は一人入れ替わり、一つ上の先輩から一つ下の後輩へバトンタッチされました。


ただし、2011年のOB吹奏楽団の主活動期間(5~9月)を前にして、団長が長野への異動と職場の激務により団長の仕事はもとより、楽団への参加も難しくなってしまいました。


最初は、長野から新幹線で来てくれたりしていたのですが、休日にも仕事が入り、平日も真夜中にメールが来るようになり…
結局、OB吹奏楽団とは以降疎遠となってしまいました。
今でも仲良しですけどね。


そんなわけで、団長代理としてこの年からOBバンドで大変な責任を負っていくこととなります。
もともと自分の担当だった仕事に加えて、それまで団長がやってくれていた仕事も背負うことに。分担しきれなかった。


この頃から、特に吹奏楽団の活動期間中の、日記の更新が止まることになります。
常にパソコンを開くと楽団の仕事が溜まっている状態。
返さないといけないメール、作らないといけない資料。

正直恐ろしくてパソコンを開きたくない。

それらを抱えたままで、誰かが見ているかわからない日記を書けなかった。

「日記なんて書く前に、やることがあるだろ!」と心の中の誰かがいつも言ってました。


楽団の運営は大変でした。
特に、指揮者の調整が…
なかなか激情家の指揮者で、火が付くとめっちゃ長文のお怒りメールがくる。
ただ意見を感情でぶつけてくるだけのメールなのに、「わかりました」みたいな返事するとより燃え上がる。
鎮火が非常にエネルギーを使う作業でした(返事を書くだけで2時間とか、幹部内での相談も含めればそれ以上)。


活動期間中はもうやめたい、としか思っていませんでした。
しかもやればやるほど団員からも「もっとちゃんとやれ」と叩かれるし、正直優しくすればつけあがり、厳しくすれば不満を言う、そんな声に辟易していたのも事実です(みんながそうというわけではない)。
でも演奏会が終わり、準備期間に入ると辛さは少し忘れ、それなりに夢も膨らんで、次も頑張ろう、と。


この後はその繰り返し。


2012年 OB吹奏楽団の団長になる


2代目の団長がいなくなったことで、正式に自分が団長になりました。


このとき、総務として俺の2つ下の後輩1人を、演奏面での監督チームとして年の離れた先輩方が新規参入しました。


相変わらず指揮者との調整は大変。
音楽リーダーとの調整も、難しいこともありました。運営の幹部として、音楽チームとぶつかることも多く、先輩たちだけにぶつかるのが非常に大変。


幹部の中では結束が強まっていきましたが、2つ下の後輩はこの年のみで幹部を引退しました。
そして、俺の同期に声をかけ、強く勧誘したら一緒に幹部をやってくれることになりました。


この翌年から2年間(2013~2014)が、自分がOB吹奏楽団をやってきた中で最高の幹部チームで仕事ができた、完成形になりました。


運営幹部3人は仲が良く、話も飲みも、本当に長い時を一緒にしました。
意見がぶつかり合っていた音楽幹部の先輩方とも、結束が強まり、幹部としての結束は非常に強かったと思います。このメンバーは、今でも「盟友」と思います。


2013年に運営体制が(自分の中では)完全体になってからは、開き直りました。
「何を言っても文句言われるんだから、人の文句は聞かない」
もう、俺様政治ですよ。ついてこられる奴だけついて来い、というものです。


年々増え続けるOBと、甘えた輩が多かったために方針を変えました。
対価をもらってやる仕事ならね、やりたくないこともやりますよ。
でもね、吹奏楽団の団長は仕事じゃなくて、趣味だ。甘えた団員にストレスをかけられるのはもうまっぴら!という状態になったんですね。
みんながそうあってほしいと思う楽団ではなく、自分が団長をやりたい楽団にしたかった。
そうでもしないと、団長を続けるモチベーションは保てなかった。


フォローしてくれる仲間はいても、団長を代わってくれる人はいなかった。
正直「俺のやり方が嫌なら自分でやってみやがれ!」って感じ。


こう思ってからは、少しは気持ちが前向きになりました。
相変わらず、パソコンを開くと仕事が溜まっていることは多かったし、指揮者とのもめ事も、他のもめ事もあって大変ではあったけれども。


そうそう、そういえば、現役サークルの会長とも揉めたなあ。
ちょうど現役サークルで未成年飲酒やコールが禁止された時期で、それをOBにも徹底させられた挙句、飲み会でコールが発生してしまいましてね。
なんか謝罪会見(?)みたいのとか、今思えば滑稽なほどに真面目に対応しましたね。
あれ、めっちゃ苦痛だったなあ。


そんなもめ事も多かったですが、吹奏楽団として音楽を追及することに前向きになれたため、幹部陣でいろいろなことにチャレンジしました。
大変ではあったけれども、とてもいい演奏会になりました。
いちプレイヤーとしても、久しぶりに感動できて。


演奏会が終わった後は毎回「ああ、ようやくしんどいのが終わった」と思っていたのが、
初めて、団長やってて良かったと思えた。


2014年 OB吹奏楽団の団長を引退する


2013年も、幹部はやめようと思って公募をかけたりもしました。
根回しとして、後輩を飲みに誘って勧誘もたくさんしたけど、結局誰もやってくれる人はいなかった。


幹部はみんな限界だった。
勧誘もし尽した。


2014年は、自分たちが今年で引退することをはじめに団員に伝えました。
そのうえで、団が存続できなくなっても構わないというつもりで、次期幹部を公募しました。


幹部ではみんなで、ここまで言っても誰も出なかったら、楽団は活動停止だよね、という話もしました。
楽団を作ってくれた初代団長とも相談して、結局この結論に至りました。


そして、自分たちにとって幹部最後の演奏会を「やりたいことを全部やる、やるなら覚悟を決めて、責任は全部とる」というコンセプトにしました。
逆に言うなら、「自分たちが責任をとれる演奏会を作る」ことだった。
すなわち、演奏プログラムを幹部の独断で決めることでした。


いやー、選曲がめちゃくちゃ楽しかった。
普段なら、アンケート取って、パートリーダーとか集めて、反対意見が少ない曲になるんですよ。


超逆。
笑ってしまうぐらいの超難曲ぞろい。


選曲しながら「こんな演奏会二度とお目にかかれないよね」なんて笑いながら決めていきました。
簡単に言うと、コース料理で前菜からデザートまで全部メイン料理みたいのが出てくるコース(笑)


普段なら、メインでもってくる大曲「ドラゴンの年」を一オープニング曲に、吹奏楽の最有名曲「ホルスト吹奏楽のための第一組曲」、吹奏楽での最難曲と言われる「華麗なる舞曲」が第一部。
自分たちの好みだけをつなぎ合わせた、ミュージカルメドレーが第二部。
組曲火の鳥」と「1812年序曲」が第三部となる構成。
アンコールもやたら難しい「ウエストサイドストーリーよりマンボ」。


この曲に決めた時、自分たちでやっておきながら背中が震えましたよ。
「こんなのできんのか」「もしできなかったらどうする」「むしろもしできちゃったらどうする」「団員ついてくんのかな」


団員は苦労したと思いますが、演奏会として形にはなったかと思います。
多くの人にとって成功だったかどうかはわからない。けれども、少なくとも自分はやりきることができた。
モチベーションも何とか保てた。


幹部として6年間、特に団長として3年間、本当につらかったし、何度もやめたいと思った。
多くのやりたいことを犠牲にしたし、失ったものもあるだろう。
でも、その分大きなものを得た。


つらく苦しかったのも今ではいい思い出。
もうやりたくないけどね。


そして、楽団も活動停止にならず、幹部を引き受けてくれる人もいました。
彼らも頑張ってくれているので、今度はサポートする側に回り、自分が大変だと思ったことを支えようと思います。